風と月
排気ガスや塵、工場の煙などおかまいなし。
西から動いてきた大気は、霞みがちな都心の空気を跡形もなく東へと追いやろうとしていた。
立春を終えた冬は、熟れきった果実のようにベテランになり、調子にのっていて、実は強大になりつつある春の勢力などに気づくはずもなかった。
やがて一時代の衰退のように、北へと追いやられてしまうだろう。
そんなこと考えたって、今はベテラン冬の北風帰り道。
もー、前へ進まない。寒いったらありゃしない。
楽しそうなのは買い物袋から転げ落ちそうで落ちない長ネギと、月くらいだ。
川沿いの帰り道、やっぱりAコース(商店街通り)で帰ればよかったと後悔の最中。
低い西空にはステージに上がったばかりの月が、僕の目を、きっとみんなの目も惹いていた。
風と月
誰もが愛する太陽の彼女とは違って、主張派ではない月の彼女。
脇役でも主役でも、実はそんなことはどうでもいいのだ。
歌っていて、それがひっそりしているなぁと思われたっておかまいなし。
晴れだって、霞みがかってたって、雨だって、おぼろな夜だって、さほど気にならない。
彼女はいつもクルクル、ルララ…と歌っていた。
だけど今夜は違っているよう。
彼女を取り巻く邪魔者達が、ことごとく消え去っているのだ。
予期せぬ突然のスポットライトに彼女の横顔は少し恥ずかしそう。
それでもルララ…と歌いながら。
ブルーのドレスから伸びるメロウで優しく、なのに眩しいくらい透き通る白い手足は、クルクルと滑らかにステージを回る。
手足の軌跡は流線形。
その流線を滑るように流れてゆくのは、彼女のささやくような歌声。
やがて彼女は、時計の短針のように境目なくゆっくりと慣れてゆき、自分が放つ光をより楽しみ始めるだろう。
だって私はきれい。本当はきれい。
その昔、
風の彼は、月の彼女に恋をした。
彼は彼女のために毎日走り回って、立派なステージとまばゆい程のスポットライトを用意した。
彼女の美しさと輝きは日に日に増してゆき、彼はそれを見ながら吹きすさぶことが幸せだった。
しかし、そのダンスと歌声は誰をも魅了した。
誰もが瞳の奥底で彼女を捉え、誰もが彼女に恋をしはじめたのだ。
彼は立ち止まり、初めて『見返り』というものを求めたくなった。
毎日が辛くてしょうがなくなった彼は、ある日、兄様である大気と惑星達にお願いをして、想いを伝えに天空へと旅立った。
数日後、夜空から舞い戻った彼に凛とした音はなかった。
風車も風見鶏も、さざ波も穂の揺れも、止まってしまった。
それ以来、風は月のために吹くことはなくなったという。
きっと年に数える程。
偶然が作り出すこともあれば、星達がプレゼントすることもある。
だけど今夜は違うのだ。
風の彼は、海と笑ったり、街と話したり、牧場を駆けぬけたりして紛らわして塗り固めていても、未だ風化しない自分の心を知っていた。
ある日、彼は大陸の山脈に腰掛けて天空を眺めていた。
そして大きく息を吸い込んで「ふぅ」と吹き出して、笑ってみた。
穂は揺れて、湖はさざ波で光り、少年は帽子を手でおさえ、綿毛は空高く旅立った。
「ふぅ」もう一度笑ってみた。
それから、彼は綿密な計画を練りはじめたのだ。
ユーラシアの大気と太平洋の大気にお願いをして、星や太陽にまで挨拶をして、この日を狙っていたのだ。
雲一つないダークブルーの半球。
星達のミラーボール。
裏方に回った太陽の、いつもよりまばゆいスポットライト。
乱れ狂った指揮者のようにさらにボウボウと、彼は彼女の邪魔者達をいっさい寄せつけない。
彼は、彼女の美しさを知っていた。
そしてやっぱり恋をしていた。
夜空の舞踏会、今夜の彼女は本当にきれい。
西から動いてきた大気は、霞みがちな都心の空気を跡形もなく東へと追いやろうとしていた。
立春を終えた冬は、熟れきった果実のようにベテランになり、調子にのっていて、実は強大になりつつある春の勢力などに気づくはずもなかった。
やがて一時代の衰退のように、北へと追いやられてしまうだろう。
そんなこと考えたって、今はベテラン冬の北風帰り道。
もー、前へ進まない。寒いったらありゃしない。
楽しそうなのは買い物袋から転げ落ちそうで落ちない長ネギと、月くらいだ。
川沿いの帰り道、やっぱりAコース(商店街通り)で帰ればよかったと後悔の最中。
低い西空にはステージに上がったばかりの月が、僕の目を、きっとみんなの目も惹いていた。
風と月
誰もが愛する太陽の彼女とは違って、主張派ではない月の彼女。
脇役でも主役でも、実はそんなことはどうでもいいのだ。
歌っていて、それがひっそりしているなぁと思われたっておかまいなし。
晴れだって、霞みがかってたって、雨だって、おぼろな夜だって、さほど気にならない。
彼女はいつもクルクル、ルララ…と歌っていた。
だけど今夜は違っているよう。
彼女を取り巻く邪魔者達が、ことごとく消え去っているのだ。
予期せぬ突然のスポットライトに彼女の横顔は少し恥ずかしそう。
それでもルララ…と歌いながら。
ブルーのドレスから伸びるメロウで優しく、なのに眩しいくらい透き通る白い手足は、クルクルと滑らかにステージを回る。
手足の軌跡は流線形。
その流線を滑るように流れてゆくのは、彼女のささやくような歌声。
やがて彼女は、時計の短針のように境目なくゆっくりと慣れてゆき、自分が放つ光をより楽しみ始めるだろう。
だって私はきれい。本当はきれい。
その昔、
風の彼は、月の彼女に恋をした。
彼は彼女のために毎日走り回って、立派なステージとまばゆい程のスポットライトを用意した。
彼女の美しさと輝きは日に日に増してゆき、彼はそれを見ながら吹きすさぶことが幸せだった。
しかし、そのダンスと歌声は誰をも魅了した。
誰もが瞳の奥底で彼女を捉え、誰もが彼女に恋をしはじめたのだ。
彼は立ち止まり、初めて『見返り』というものを求めたくなった。
毎日が辛くてしょうがなくなった彼は、ある日、兄様である大気と惑星達にお願いをして、想いを伝えに天空へと旅立った。
数日後、夜空から舞い戻った彼に凛とした音はなかった。
風車も風見鶏も、さざ波も穂の揺れも、止まってしまった。
それ以来、風は月のために吹くことはなくなったという。
きっと年に数える程。
偶然が作り出すこともあれば、星達がプレゼントすることもある。
だけど今夜は違うのだ。
風の彼は、海と笑ったり、街と話したり、牧場を駆けぬけたりして紛らわして塗り固めていても、未だ風化しない自分の心を知っていた。
ある日、彼は大陸の山脈に腰掛けて天空を眺めていた。
そして大きく息を吸い込んで「ふぅ」と吹き出して、笑ってみた。
穂は揺れて、湖はさざ波で光り、少年は帽子を手でおさえ、綿毛は空高く旅立った。
「ふぅ」もう一度笑ってみた。
それから、彼は綿密な計画を練りはじめたのだ。
ユーラシアの大気と太平洋の大気にお願いをして、星や太陽にまで挨拶をして、この日を狙っていたのだ。
雲一つないダークブルーの半球。
星達のミラーボール。
裏方に回った太陽の、いつもよりまばゆいスポットライト。
乱れ狂った指揮者のようにさらにボウボウと、彼は彼女の邪魔者達をいっさい寄せつけない。
彼は、彼女の美しさを知っていた。
そしてやっぱり恋をしていた。
夜空の舞踏会、今夜の彼女は本当にきれい。
by a_kessay | 2009-02-10 21:39